Épisode 6  Signe


 嵐のような時間が過ぎ去って、僕たちは凪の時にいた。
 汗ばんだ身体を寄せ合っていたけれど、僕らはもういつもの、兄妹のような関係に戻っていた。……それでも僕達が、今までとは違う、決定的な一歩を踏み出してしまったということの重大さは分かっていた。
 ままごとみたいな子供の時の約束や、伯父たち周囲の期待に沿う為でなく、僕が自分の意志で彼女を選んだということを。
 シャルロットを好ましく思っているだけでなく、僕は彼女と居ると本当に幸せな気持ちになる。ホッとして、心の底から寛げる感じだ。
 僕は、彼女の白い首筋に顔を寄せ、深呼吸して匂いを嗅ぐ。石鹸だかコロンだかの香料と彼女の汗の香りが入り混じった、甘く懐かしい匂い。
 それは僕にとって、ずっと変わらない何かを象徴する匂いだ。

 シャルロットが目を開けて、少しはにかんだ笑顔で僕を見返す。
 そんな時でも彼女は、いつもと同じ、僕よりも少し年上であるかのような落ち着きを持っているのに驚く。実際には僕の方が一歳ほど年上で、常に年長として振舞っているのに、彼女はいつもその視線だけで僕の優位を覆す。
 見るものを真っ直ぐ射抜く、恐ろしいほど澄んだ青い瞳は、兄のナタニエルと全く同じだけれど、ナタニエルがややもすると諧謔や揶揄の強い光を帯びがちであるのに比べて、シャルロットのそれはどんな時も穏やかで波の立たない深い水のようだった。

 不意に息苦しくなって、胸の奥を締め上げる痛み──愛しさに、僕は彼女を強く抱き締めた。彼女は抱き寄せられるままに大人しく僕の腕の中に納まり、僕の肩の上に頭を乗せた。
 ぴったりとくっ付いたなめらかな肌は湿っていて、呼吸のたびに僕の胸に彼女の乳房が優しく押し付けられるのが分かる。

 彼女を護りたい、と強く強く思った。彼女を悩ます全てのものから。
 彼女の心を悩ますものが何であれ、僕はそれを取り除きたかった。
 彼女は僕の恋人、僕は彼女の恋人なんだ。

 だけど、これがそんなに大事な事なら、あれ…もまた、同じような絶対的な価値を持つと言うのだろうか。
 ……あの男のことを思い出してしまった。折角忘れていたのに。
 いや、本当に忘れるってことはもうないんだと思う。ただ、心の片隅に追いやることが出来るかどうかってだけで。
 僕は忘れたかった。一時でも良いから忘れていたかった。
 あの嗤いを、あの男に関わる全てを──僕の身に起こってしまったこと全てを忘れたくて。
 彼女のくれる安らぎが欲しくて。僕は何も変わっていないのだと、彼女に肯定して欲しくて。
 そんな卑怯な理由で。僕は。

──苦しいわ、エルヴェ。
 穏やかな彼女の声でやっと我に返った。知らない間に力が篭もっていたみたいだ。慌てて背中に回した腕を緩める。
 謝る僕をシャルロットは咎める色の全く無い、青い瞳で僕の顔を見上げて、少し身体を離した。
 その澄み切った瞳を覗くと、さっきのとはまた違う痛みがちくり、と胸を刺す。それはやましさを含んだ痛み。
 僕はあの男のことを心から振り払うためにも、彼女が必要だ。

──エルヴェ……と彼女が僕の名を囁く。擦れた語尾。あまく優しいその響き。
──あのね、あなたに話しておきたいことがあるの。
 シャルロットの瞳が躊躇いがちに揺れた。
──笑わないって約束してくれる? 真面目に最後まで聞いてくれるって。
 僕が頷くと、彼女はまだ不安そうにしながらも心を決めたみたいで、静かに話し始めた。

──印が見えるのよ。皆の額に。

 え? と僕は訊き返した。多分本当に吃驚した顔をしていたんだろう。彼女の顔がいっそう不安げになったから。
 ああ、何てことだ。彼女を安心させなきゃいけないのに、余計に不安がらせてどうするんだ。
 僕は必死に真剣な顔を作って、彼女の目を見詰め返す。彼女をちゃんと信じていることが伝わるようにと念じながら。
 やっと少し安心したのか、彼女はゆっくりと言葉を継いだ。

──眉間の辺りに、こう……ぼんやりと赤い靄みたいなものが漂っているのが見えるの。
──見え始めたのは何週間も前なの。夏休みが始まって少し経ったくらいの頃。最初は数も少なかったから、何かの見間違いかと思った。でも段々増えてきて……
 言葉が揺らいで途切れた。

 ……額の赤い印。それが彼女にだけ見えるというのはどういうことだろう? それは一体どんな意味があるんだろう。
 たとえ幻覚の類であったとしても、彼女がそれを見るのは相応の原因がある筈だ。やっぱり、死人が何人も出て兄のナタニエルが行方不明になって、村の雰囲気がどんどんおかしくなっていったのが影響しているのかも知れない。
 けれども、彼女が心配で何とかしてやりたいからという気持ちだけでなく、僕には見えないその印の話が何だか妙に気がかりだった。
 それが、彼女の知らないあの事、あの男と……僕とアンリエットだけが知っている事実に、何処かで関係しているような気がしてならなかった。
 その怖れを彼女に知られたくなくて、僕は彼女を気遣うふりをして、問い掛けた。

──そうね。それの意味が私に分かっていたら。
 そう言って、彼女は少し考え込むように瞳を伏せた。
──でもね。もう印の無い人は殆ど居ない。皆、みんな、変わってしまったのよ。

 では……では、僕は。
 思わず問い返した僕に、彼女は微笑みかけようとして……失敗した、泣き笑いを浮かべた。