Épisode 5  Requiem


 一日前。ある男と青年の会話。

 薄曇の空の下、大きな貯水池に面した草原に座り込み、男はじっと対岸を見ている。
 高く低く、唸るような羽音を残して羽虫たちが飛び交う。暗く淀んだ池の、鏡のような水面にそのうちの一つが触れて、小さな波紋を作った。
 草を踏み分けて近付いてくる足音の後に、現われた人の気配。
 麻の背広を着崩した青年が、人懐っこい笑顔と共に帽子を取って男に挨拶する。
「こんにちは。」
「──ああ……こんにちは。」
 男は僅かにそちらに顔を向け、低い声で挨拶を返した。
 男の顔の上半分は濃い色のサングラスで覆われていた。その下にはだが、隠し切れないほど大きな傷痕が左半面を縦横に走っている。
 青年は男の隣に立ち、その視線を追う。その表情はあくまで快活で、声音は楽しげでさりげない。
「……何か面白いものでも見えますか?」
「別に何も。」
 しばしの間沈黙が続く。男も青年も無言のまま、水面を見ている。
「地元の方ですか?」
 沈黙を気に止めた気色もなく、青年が口を開いた。
「──ああ。」
 男の言葉は一旦途切れるが、少しの間をおいて、
「いや。療養に来ている。」
「療養ですか。」
「怪我をしたので。」
 男は傷痕の残る自分の頬を撫でる。それは無意識のうちの行動のようだ。

 一ヶ月前。ある男と女の会話。

「君のパトロンは良い顔をしないだろう……」
 男は低い声で呟き、通りに目を向けながらグラスに注がれたワインを一口啜った。
 開放された春の明るい日差しの中、それぞれの速度で人々は行き交う。この、通りに面した店のテラス席のテーブルも、遅い昼食に興じる人々で殆どが埋まっている。
 女は口を拭ったナプキンをテーブルの上に置くと、形の良い眉を吊り上げた。
「何? 文句なんて言わせないわよ、それだけのことはしてきたんですもの。それにあの人は今更私が男を引っ張り込んだって驚きゃしないわよ。」
「……それならいいが。」
 気のない様子で男は呟いて、更にワインを啜る。向かい合った女が、美しく装った顔を曇らせた。
 女は訴えかける視線で、テーブルに置かれた男の手の上に自分のそれを乗せる。
「ねえ、カンタン。私は本気で心配してるのよ。セシールのことで……あなたが傷ついているのは分かってる。だからずっと黙って見守ってきた。でも、もういい加減何とかしないと、あなた自身が駄目になっちゃうわ。」
 男は僅かに頭を傾けて女を見詰め、目を伏せた──ややあって、平坦な声で答える。
「……だが、見えるんだよ。俺には。」 短い沈黙。
「セシールが、そこに立って俺を見詰めているのが。」

 一年前。ある男と女の会話。

「セシール。もう決まったことなんだ。分かってくれ。」
「それは口実でしょう。あなた、本当は私と別れたいのよ。だから、」
「……俺がいつ、そんなことを言った。」
「あの女のところへ行くのね。あなた、ずっとあの女が好きだったんでしょ?」
「彼女とは何の関係も無い!! どうして分かってくれないんだ……」
「私、絶対別れないわよ。」
「いい加減にしろ! 怒るぞ!」
「──絶対に行かせない。」
「……セシール。何を、」
「あなたは私のものよ。」
「おい、やめろ。それをこっちに寄越すんだ。」
「いやっ。」
 轟音。重く湿ったものが床に倒れる音。
 やがて、ドアを激しく叩く音と不安げな隣室の住人の問い掛ける声。
 そして。

 30分前。ある男と青年の会話。

 よく晴れた初夏の午後。
 大きな貯水池に面した草原に座り込み、男はじっと対岸を見ている。
 暗い鏡のような水面はさざなみ一つなく、青い空の断片を映している。
 そこへ、青年が通りかかる。草踏む小さな足音と、再びの人懐こい笑顔。
「こんにちは。」
「こんにちは。」
 帽子を取り会釈する青年に、ぎこちなく男は応える。
「またお会いしましたね。」
「ああ。」
「今日は暑くなりそうですね。」
「そうだな。」
 青年は長年の知己のように男の隣に腰を下ろし、その視線の先に目を遣る。
「……やっぱり何か見えるのでは。」
「どうかな。」
 男はフラスクの酒を煽る。そして静かに付け加えた。
「……女の子が見える。金髪の。」
「女の子、ですか。」青年が尋ねる。
「ああ。」
「他には……?」
「セシールが見えるよ。いつもな。」
「……そうですか。」
 長い沈黙。男も青年も無言のまま、水面を見ている。
 身体にも感じられぬほどの微風がゆるやかに吹き渡り、かすかに池の面を撫でていった。そよ、と木の葉ずれの音が静寂の上に落ちる。
 突然、青年が口を開いた。
「見えない方がいいですか?」
「……いや。どうだろうな。」
 男は僅かに頭を傾けて、水面に微かに立った波の波紋を見続ける。
「どの道、もう遅い。」
 静かな呟き。
 青年は、しばらくの間男の横顔をじっと見詰めていたが、やがて立ち上がると、丁寧に男にお辞儀した。
「さようなら。」
「……さようなら。」

 3時間後。ある女が読んだ手紙。

「カロリーヌ。
 君の好意を無駄にするようで申し訳ないが、やはり俺は、セシールがしようとして果たせなかったことをしようと思う。
 今までありがとう。本当に世話になった。
 愛している。さようなら。」