Épisode 3  Destin


 本当に馬鹿げてる。あたしはいつもそう思う。
 毎晩繰り返される儀式。
 あたしは大きな、繻子張りの椅子に腰掛けて、彼を見る。ぶらんと自然に降ろしておくと、あたしの脚はまだ床にぎりぎり届くか届かないか、そのへん。
 その脚を、彼に見せびらかすように斜めにちょっと上げる。
 彼はあたしの足元に跪くと、そっと、まるで大事な宝物を扱うみたいにあたしの足首を持って、靴を脱がせる。
 白いレースの付いた絹靴下を彼はしばらく見ている。時間にしたら5秒くらいだろうか。いつもあんまりしげしげと見ているものだから、何度か数えてみたのだ。
 その後、彼はゆっくりと丁寧な手つきで靴下を剥いでいく。脱がすと言うより本当に果物の皮でも剥くみたい。
 それから剥き出しのあたしの足の甲に、うやうやしく口接けする。眼を伏せて、ちょっぴりだけど本当にウットリとキスする。
 それを両足で二回。毎日必ず服を脱いで寝巻きに着替える前に、彼が仕事なんかで遅くならない限りはほんとに毎日毎日。
 ねえ、本当に、すっごく馬鹿馬鹿しいと思うでしょ?

「どうせ避暑に行くんならたまには違うところに行きたいわ。だって毎年毎年おんなじところじゃもう飽きちゃった。」
「そんなことをお言いでないよ、私の天使さん。デュボワ夫人の子供たちとはいつも仲良くしてるじゃないか。」
 あたしは不機嫌なのを見せ付けるために、眉を思いっきりしかめて、ぷいと横を向いた。
 列車に乗ってしまっているのだから今更逆らったって無駄なんだけど。
 それに彼は凄く頑固だから、あたしの言うことを聞くような振りをしてても、結局自分のやりたいことしかしてくれない。
 本当に詰まらない。森だって池だって、もうわくわくするような秘密なんか全然残ってやしない。
 彼はあたしがもうかくれんぼやおままごとで遊ぶ歳じゃないって分かってるのかしら?

 でもしょうがないのかしら、とも思う。
 だって、彼はあたしのママが大好きで、昔あたしくらいの時にママとあの村で会ったのが忘れられないみたい。(うんざりする程ママの思い出を聞かされたから間違いない。)
 だから、ママがパパと事故で死んじゃった後、あたしを引き取って育ててるのだし。あたしは昔のママとそっくり──「生き写し」?らしいから余計だ。
 人間て年寄りになると昔のことばっかり気にするようになる。これは絶対に本当。
 彼はそんなに凄い年寄りじゃないけど、あたしの3倍は歳を取っている訳だから、やっぱりその分年寄りなんだと思う。
 だから毎日同じことばっかりしてても平気なんだわ。

 そんなことを考えながら、あたしは横を向いたまま窓の外を眺めていた。
 一面の緑は、すっかり都会を離れて田舎へ向かってることを教えてくれる。延々と続く畑と草原の緑。家だって思い出したようにまばらにしか立っていないし、森の色も濃い。
 ふと彼の方を盗み見ると、腹の立つことに彼は本を読んでいた。しかも、紙面から目を上げた彼と思わず目が合ってしまった。
 “全部お見通しだよ”みたいな眼で笑わないで。
 何か余計にむかついたけど、外を見てるのも飽きたし何より首が疲れたので、あたしは我慢しておとなしく前を向いていることにした。
 ああ。やっぱり退屈。

 問題は、この先何年経ったって、あたしが大人になったって、きっとこんな毎日が続くってこと。
 彼はあたしの保護者で“おじさま”だけど、“恋人”でもある。しかもあたしは彼と結婚の約束までしてしまっていた。
 昔あたしがもっと幼かった頃は、それはとても素敵なことだった。彼はとてもハンサムで、頭が良くて、何でも出来て、他の子のお父さんや他所の男の人を見る度に、あたしは誇らしい気持ちになったものだった。
 こんな素敵な人のお嫁さんになれるあたしは世界一幸せな女の子だと。
 でもあたしはもうそんな小さな子供じゃない。
 よく考えてみて。
 あたしはまだ若い。なのにもう、未来が全部決まってるなんて。
 他の子が憧れる、ときめく恋もなし。恋する人が現れないかも知れない不安もなし。両想いになりたくて悩む必要もなし。職業婦人になるなんてこともない。
 予想できないものが何もない。
 そんなのあり?
 この先、彼が死ぬか破産でもしない限り、あたしの未来はもう決まっている。

 突然客室の扉が開いた。
「失礼。お邪魔しても良いですかね?」
 入り口に若い男の人が立っていて、帽子をひょいと取ると軽く会釈した。片手には傷だらけのトランク。ニッと口唇の端を持ち上げて微笑った。
 彼は多分「どうぞ」とか何とか答えたんだと思う。その人は笑いながらコンパートメントに入ってきたから。
 でも、あたしはそんなの聞いちゃいなかった。入って来た時の笑顔を見た時から、その男の人から吸い付いたみたいに目が離せなくなっていた。
 彼が自分の隣に移るように言ったのに「はい、おじさま。」って答えたけど。でも何だかその自分の声がずい分と遠くから聞こえてきた気がした。
 男の人はあたしたちの向かいに座ると、トランクを隣に放り出して、相変わらずにこにこ微笑みながら彼と話し始めた。
「ありがたい。いや、連れと待ち合わせてたのですが、どうも遅れるらしく駅で電報を貰いましてね。一人で困っていたところです。」
 その後はこれから何処へ向かうとか、いつもは何をしているとかそういう話になっていった。
 何と男の人の目的地はあたしたちと同じだった。村長さんの息子さんの友達で、パリで知り合って親しくするうちに、夏に村に帰る時には是非一緒に来るように誘われたのだと言う。
 二人は村長さんの家族の話や村の話をして何だか盛り上がっていた。

 あたしは。

 あたしは凄くドキドキしていた。胸の奥の心臓が、物凄い速さで動いてる。ドッドッと脈打つ音が自分にも聞こえるくらい。
 これは何?
 一体あたしに何が起きてるの?
 その人は彼よりだいぶ年下に見えた。大人の年齢は分かり難いけど、髭を生やしてないし皺もないからきっとそう。顎も頬も、なめし皮みたいにすべすべして見える。
 まるで物語の王子様みたいにハンサムだ。
 ああ! でも一番気になるのはその人の顔立ちが綺麗なことじゃない。
 眼。
 その人の瞳が。
 前に彼が見せてくれた、大昔の黄金の首飾りのような、強くて心に突き刺さるみたいな光を帯びているからなんだ。

 あたしは急に、彼に目の前の人が気になっていることを知られないようにしなきゃと、気が付いた。あたしはそれくらいその人をじろじろ見ていた。
 でも、彼はあたしの変化には気付いてないみたいだった。単に知らない人に好奇心を持っているだけだと思ったのかも知れない。
 とにかく慌てて目をそらして窓の外を見て。
 しばらく経ってから、彼と世間話(良く分からない大人の話題)を続けるその人を、ちらりと盗み見た。
 あの人はあたしの視線に気が付いた。
 そして、ほんの一瞬だけ、稲妻みたいに素早く、あたしだけに向かって笑いかけた。

 やあ。

 黄金の眸。
 胸の奥も、こころも貫く。

 そう。その一瞬に、あたしは。
 ドキドキの正体を知った、と思った。

 だからあたしは今、走っていく。
 真夜中、皆が寝静まって、月だけが見ている林の小道を。
 あの人のところへ。
 あの人は待っている。あたしの来るのを。
 館で眠っている、彼はそのことを知らない。あたしのママと同じように、あたしも彼のものでなくなってしまったことを、いつか彼は知るのだろうか。
 けど、今は。
 明かり一つない草叢から白い蛾が羽ばたき、夜の鳥が啼く深い林を、あたしは走る走る走る。
 あたしの運命に向かって。
 あたしの生まれる朝に向かって。