Épisode 4  Le stigmate


1

 薄暗い廊下を私はそろそろと歩いていく。その胸は痛いほど高鳴っている。
 私の耳を捉えて離さない、この断続的に上がる呻き声の、その源を知りたくて。
 その部屋の扉はうっすらと開いていた。
 恐怖を感じながらも私はその隙間からそっと中を覗く。
 薄闇に覆われた部屋の中。ぶ厚いカーテンから洩れる細い光の筋が、ぼんやりとそこに蠢くものの輪郭を浮き彫りにする。
 揺れ動く影。低い囁き。喘ぎ。寝台の軋む音。
 鋭い苦鳴。
 そして、私は

*        *        *

「ヴァンサン・カルヴェ先生ですね?」
 駅のホームに佇む、眼鏡を掛けた四十前後の男に、私は横合いから声を掛けた。
 ハッと目の前の男が身を強張らせるのを感じた。少なからず不安を感じている証拠でもある。
 私は素早く右手を差し出し、握手を求めた。
「私はウージェーヌ。既に連絡が来ていると思いますが、モーガン師の紹介で参りました。」
 私は「モーガン師」の部分をそのまま英語風に発音した。慌てて握り返す男の、じっとりと汗をかいた手に、「ソシエテ」の取り決めたサインを送る。男はサインを確認したらしく、眼鏡の奥の視線が一層うろんに宙を彷徨った。
「失礼。ウージェーヌ……?」
「ただのウージェーヌで結構です。早速ですが村を案内していただけますか。詳しい話はその後で。」
 男は一瞬虚を突かれた表情で私を見た。蒼白いインテリのお遊びに過ぎないと思っていた秘密結社が、実際に活動しており、自分の元にエージェントを送って来るという椿事に彼の頭が追いついていかないのだろう。
「ああ。すぐそこに車を止めてあります。病院から駅はかなり遠いのですよ。歩いていけない距離ではないのですが……。」
 動揺を取り繕うように話し掛けてくる男の後を追って、私はこじんまりとした駅舎を出た。その外には、青々とした牧草地が広がっている。初夏の日差しに、遠く暗緑色の森も浮かんで見えた。
 ここらも、夏には都会からの「移民」が増える避暑地ではあるが、昔ながらの海岸部の混雑具合に比べればその規模はごくごく小さいものだ。本格的なヴァカンスはこれから、といったところだろう。
 私は、怠慢なエンジンに何とか言うことを聞かせようと、額に汗を浮かべて奮闘する男の隣の座席に座り、現在の状況を整理しようとしばしの間目を閉じた……。

*        *        *

「読んだかね? あれは。」
 講義の終わった後、モーガン師は私を伴い、大学敷地内の並木道を歩き始めた。秋の弱い日差しの下、黄色く変わった木の葉の舞い落ちるその道すがら、最近発表された学術論文の話の次に出たのがその話題だった。
 師はさり気ない口調で話しているが、すぐ側を校舎を移動する学生達が通り過ぎるので、私は何となく落ち着かない。そのため、返事は短く頷くだけとなってしまった。
「では、今や君は、自分の家族に何が起こったのか、同じようにして起こった他の事件と共にその詳細を知った訳だね?」

 私の家族、で在った人達。
 年の離れた兄と美しいその義姉。あの頃の幼い私は、似合いの二人だと近所の人達に言われる度、晴れがましく感じたのを覚えている。近くに住んでいた従姉は朗らかで、何でもないような事柄にでも良く笑った。
 兄が死んだ後、義姉は自らを埋葬するかのように修道院に入った。狂った従姉は療養先の病院で病死した。
 そして私は──

「……出来ればもっと、知りたいと思っています。」
 顰めた声に思わぬ激しさが篭ったか、師は片眉を上げて足を止めて私をじっと見つめた。
「君は兄上の仇を討ちたいのかね?」
 その視線の鋭さに、私はいささか恐怖を覚えつつ、急いで言葉を継いだ。
「いえ…いえ。違います。私は“それ”が何であるのか知りたいのです。
 我々はどうやって“それ”が伝染するのかは知っていますが、何故感染するのか、それが病であるのかそれとも古来信じられていたように呪いであるのかでさえ分かっていません。
 “それ”が如何なる生物なのか、その生態を、構造を、存在の秘密を解き明かしたい……」
 私は何としても位階を進めて、より多くの秘儀に触れたかった。狩人の一員として狩りに立ち会いたかったのだ。
「成る程。君は激しい熱意を持って貪欲に学ぼうとしている訳だね。結構。大いに結構。」
 師の視線は、目と言う窓から私の頭蓋の奥まで射抜いて、私を釘付けにした。
「ただし、これだけは忘れないようにしたまえ。『怪物と闘う者は、その過程で自らも怪物とならぬよう気をつけなければならない。お前が深淵を覗いている時、深淵もまたお前を覗いているのだ。』──狂死したドイツ人の言葉だが、我等のような探求者に必要な警告でもある。……」