Épisode 4  Le stigmate


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 近在の村では唯一の医師であるヴァンサンは、それぞれの家の家庭事情にもそれなりに詳しく、村を一周して彼の住居兼病院へと辿り着く頃には、この村の主だった住民の情報を頭に叩き込むことが出来た。
 その上で私は、この相棒と言うには余りにも頼りない現地駐在員を即効で「教育」し直す作業に取り掛かった。

「──今回リヨンで発生した事件の犯人は、約百年ほど前にこの村を襲った人狼と同一個体である可能性が高いのです。」
 私の作成した資料を必死に読んでいた医師が、ギョッとした顔で目を上げた。
「良く似た特徴を持つ人狼の記録が17世紀初頭に見られる事から、最低でも三百年は生きていると思われます。人狼の生態については未知の部分が多いですが、それを割り引いても長寿と言わざるを得ないでしょう。
 当人が引き起こしたかどうか明確ではないケースも含めて、人狼禍に見舞われた場所に周期的に出現する傾向があり、それが今回私がこの村に目を付けた理由です。」
「では……では貴方はその…人狼が既にこの村に入り込んでいると? 今のところこの村にはそんな兆候は欠片も見られない……」
 呆然とした体で呟くヴァンサンに畳みかけるように私は続けた。
「貴方もここで開業される際に『ソシエテ』で特別講義を受けられたでしょうからご存知のことと思いますが、人狼は人心操作の術に長けています。
 人狼を目撃した者は、事件後一様に不可思議な眼力を持っていたと証言しています。俗に言う邪眼ですか──で犠牲者を一種の催眠状態に置き、疑念や不信感を緩和させると思われます。
 実際、奴の偽装は恐ろしく巧妙です。驚くほど巧みに取り入り、周囲に溶け込んで違和感を感じさせません。
 この辺りは別荘地ですから、夏の間は人口が増えます。何処かの家の招待客として紛れ込むのも容易です。昔と違って、余所者が目立ち難い。」
「しかし、そんなことが有り得るのでしょうか? 百年以上も前の人狼が生きて……いや、よしんばそれが事実であったとしても、」
「私の追っている個体は──『彼』は人狼としても非常にユニークです。奴による事件は被害を受けた当事者でさえ何が起こったのかしかと把握できない場合が多いのです。食人は奴のもたらす災禍の一つに過ぎません。」
 私は貫くような師の視線を思い浮かべながら、ヴァンサンの眼を見据えた。
 彼をその気にさせ、狩りに向かう決意を固めさせなければならない。今の私には何としても彼の協力が必要だ。
「奴の脅威はその精神的影響力にあります。その場に存在するだけで着実に周囲の人間の精神を変質させていくのです。影響の甚だしい場合は人格まで一変してしまう。
 人狼の災厄は奴等が死に、或いは立ち去った後にも後を引くのです…。」
 いたたまれなくなったようにヴァンサンが俯き、手元の紙片に目を落とす。
「幸いにもまだこの村では誰かが襲われたような形跡はありません。
 すぐさま行動を起こせば被害は未然に防げます。我等の手で奴を発見し、捕獲または排除するのです。よろしいですね?」
 私は立ち上がり彼の肩に手を掛けた。彼はまだ下を向いたまま、自分の思考の迷路を彷徨っているように見えた。私はその側でなおも彼に囁いた。
「奴はその襲う対象に特徴があるのです。統計的に見て人狼の被害者は女性と子供が圧倒的に多い。力の弱い、抵抗され難い者を選んで襲う。ところが…」

「奴は男を喰います。」

*        *        *

「では、どうしても追跡は認められないと言うのですか!!」
 私は自分の声が昂るのをどうしても抑えられなかった。私の声は、我等一団が臨時会議室としたホテルの一室に、無作法なほど響き渡った。
 思わず頬が赤らむのを覚え、激情を押さえて何とか言葉を継ぐ。
「……殺害から我等の到着までの日差は僅か四日。奴の移動ルート推定を間違えさえしなければ充分に追いつく事が可能です。それを何故、」
「君は何か勘違いをしていないか?」
 私の現在の指導教官は冷淡な一瞥を私に向けた。
 そりが合わないだけではない。私と彼の関係は、私がここに派遣されてから悪化する一方であった。派閥と言うものは、何処に行っても無くなることは無いらしい。
「『ソシエテ』の役割は記録し収集し分類し保管することにある。対象に必要以上に近付き、接触を持つことは我等の本道ではない。討伐が我等の任務ではないのだよ。
 君は自分を偉大なハンターとでも思っているのかね? 正義を為し悪を討つ者と? 犠牲者の無念を晴らしたいと思っているのであれば、君、それは筋違いと言うものだ。」
 彼の声音には明らかな侮蔑を込められていた。彼は私の家族が奴に襲われたことを知っている……。私は自分の脳髄の奥がカッと熱くなるのを覚えた。
 他の二人の団員は沈黙を保っている。私と彼の軋轢にはとうに気付いており、口を挟んで余計に事を荒立てたくない、と言う姿勢がありありと見える。
 今ここで、私が頑固に彼に楯突いても益はない。決定権は彼にあり、位階が下の私はそれに従わねばならないのだ。
「……分かりました。ではせめて、被害者の周辺調査だけは継続させて貰えませんでしょうか。
 先に総長のご指導のもとハウスに提出した仮説を、有力に裏付ける証拠と思われるものを発見しており、その検証をしたいのです。」
 彼は少し考えるような素振りを見せた。彼としても、締め付けすぎて私に自棄を起こされては後々不味い筈だ。渋々といった体で、私の申し出を認めた。

 私は調査を続ける為に、部屋を辞してホテル内の自分の客室へと向かった。
 冷静さを保たなければならない。
 彼の方針に従う気は、もう更々無かった。私はどうしても奴を追いたかった。
 単独で外へ行けば或いは尾行される可能性もある。その場合はどこかで振り切らねばならない。
 私は奴のすぐ後に迫っている。必ず奴の尻尾を掴んでみせる。